空飛ぶペーパードライバー

短歌やお笑いや映画や人生などの感想

カオティック人間讃歌『野のなななのか』

野のなななのか』を劇場で観た。すさまじき生命賛歌、あっぱれだ。ツッコミどころは満載で、妙に古い劇チックなわざとらしい言い回しの台詞(とくに冒頭の方)はつぎつぎ怒濤のようにあふれてくるし、死んだ人も語るし、謎の人物も語るし、画面の向こうの私たちにも語りかけるし、主体の視点もころころ切り替わるし、合間合間に挿入されるあからさまなクロマキー合成で野のなかを行脚するちんどん集団パスカルズの姿は妖精のようだ。そんな「カオス」がカオスのままひとつの映画の中で成立し、こうして鑑賞者に伝わっていることに感嘆する。

軸は「おじいちゃんの死」からそのなななのか(七×七=四十九日)までの物語なのだけど、それをとりまき、3時間の大ボリュームに実にたくさんの人物が登場し、たくさんの物語が交錯し、たくさんの要素が盛り込まれている。ふるさととは何か、家族・親戚の血のつながり、伝承していくということ、青春、平和とは、生きていくということ、死んでいくということ。映し出される話題も、炭鉱町の栄華から衰勢を経ての現在、本土の第二次大戦終戦後も樺太で続いていた戦火、東日本大震災原発問題とさまざまにおよび、移り変わる。しかし、それらの要素が、ぽん、ぽんという挿話としてというより、物語の一貫した姿勢を強固なものにするため調和し、からみあってはたらいている。

非常に「しゃべり」の多い、言葉の多い映画で、大林監督が映画というマジックの中で役者の声を借りて未来へのメッセージを出し切った、というような感じがした。鑑賞しながら私は、年の功、って言葉を思い出していて、自分の何倍も人生を生き抜いてきたはるかな人からはるかなお話をずっと聞かされているような、すごくポジティブな意味で、そんな感覚になっていた。そのめまぐるしさが実に尊かった。受け取りたい。